松竹計画の続きです。
今回は水谷則一。
ご尊顔。
では能力
水谷 則一
1936~1950年
ポジション:外野手 投打:左投左打
経歴:愛知商業学校→慶應義塾大学→満州鉄道倶楽部→大東京&ライオン軍→宇高レッドソックス&熊谷レッドソックス→松竹ロビンス
【通算記録】
325試合 .254(1168打数297安打) 33二塁打 18三塁打 5本塁打 135打点 147得点 65盗塁(.XXX)
102三振 241四球 5死球 18犠打 2犠飛※ 0併殺※ 出塁率.384 長打率.326 OPS.710
【1950年成績】
1試合 .000(1打数0安打) 0二塁打 0三塁打 0本塁打 0打点 0得点 0盗塁(.---)
0三振 0四球 0死球 0犠打 -犠飛 0併殺 出塁率.000 長打率.000 OPS.0
※は成績の残っていない年度もあるため正確な数字ではないもの。通算盗塁成功率は盗塁死が記録されていないため不明
NPBで最初に左打席に立ったバッター、水谷則一選手です。
慶応義塾大学、満州鉄道倶楽部を経て1936年に大東京軍の結成に参加してプロ野球選手第一世代に。プロ野球最初の公式戦があった1936年4月29日に左打席に立ち、日本で初めて左打席に立ったプロ野球選手となった。リーグ平均を超える打率とたぐいまれなる選球眼で多く出塁。盗塁も多く決めるなど大東京軍の中軸としてチームを引っ張った。しかし応召のためか1940年に退団。戦後には宇高レッドソックスにて国民リーグに所属するものの同年限りでリーグが解散したため翌年に大東京軍の後継である大陽ロビンスに復帰。選手としてではなく助監督としてチームを引っ張った。
1950年には1打席だけ立ったものの安打を打つことなく選手としては優勝には貢献できなかったものの助監督としてチームを鼓舞して優勝には貢献した。同年限りで現役を引退。
1954年には洋松ロビンスのコーチも務めた。
1984年8月29日死去。享年74
査定について
戦前の成績を参考に大幅劣化させました。選球眼がすごく良かったので選球眼はつけてます。
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