松竹計画の続きです。
今回は綱島新八。
ご尊顔。
では能力
1949~1953年
ポジション:外野手 投打:右投右打
経歴:高松市立商業補習学校→立教大学→明電舎→増田化学工場→山藤商店→大映スターズ→松竹ロビンス→洋松ロビンス
【通算記録】
339試合 .219(718打数157安打) 19二塁打 4三塁打 5本塁打 59打点 98得点 28盗塁(.622)
85三振 46四球 4死球 6犠打 -犠飛 16併殺※ 出塁率.270 長打率.277 OPS.547
【1950年成績】
26試合 .258(31打数8安打) 1二塁打 0三塁打 0本塁打 2打点 9得点 2盗塁(.500)
7三振 1四球 0死球 0犠打 -犠飛 0併殺 出塁率.281 長打率.290 OPS.572
※は記録がない年があるため正確な数字ではない
通算盗塁成功率は盗塁死が記録されていない年があるため不明。
3つの社会人野球球団を経て、1949年に大映スターズに入団。俊足を生かしたプレーで出場を続け、1950年に松竹ロビンスに移籍。
しかし同時に移籍した小鶴誠や戦前の強打者である吉田和生、元々所属していたベテランの岩本に同じ俊足の木村と厚い選手層には勝てず、出場機会は主に代走に限られた。セリーグ初優勝にはあまり貢献出来なかったものの9出塁に対して9得点と代走による得点が多かったと思われるものの水爆打線の援護を受けてチームの得点には貢献した。
翌年も出場機会が限られたものの、規定打率不足ながら3割を記録。
翌1952年には主力の多くが放出されたこともあってレギュラーを掴んだものの年齢もあってか打撃成績をほとんど残せず、合併した翌年も2割を切って1953年限りで引退した。
引退後の1958年にはPL学園高校の監督に就任するなどアマチュアの監督として活躍した。
査定について
俊足攻守の選手らしくしましたが、出場機会を減らすためにあまり強くはしていません。固め打ちは1950年に立った6回のスタメンの内1度猛打賞を記録しているため。
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