特に脈絡のない外国人OB選手です。今後はリクエスト消化も含めて何となく選手を選んで更新していきます。
ご尊顔。
では能力
ダリル・ディーン・スペンサー
1964~1968、1971~1972年
ポジション:二塁手 三塁手 一塁手 (遊撃手 外野手) 投打:右投右打
【通算記録】
731試合 .275(2233打数615安打) 120二塁打 3三塁打 152本塁打 391打点 332得点 6盗塁(.400)
399三振 371四球 13死球 6犠打 9犠飛 57併殺 出塁率.379 長打率.536 OPS.915
【キャリアハイ】1965年
123試合 .311(405打数126安打) 21二塁打 1三塁打 38本塁打 77打点 68得点 1盗塁(.250)
64三振 79四球 0死球 0犠打 1犠飛 12併殺 出塁率.423 長打率.649 OPS.1.072
阪急初優勝の原動力としても知られたダリル・スペンサー選手です。
1964年に阪急ブレーブスに入団。MLB仕込みの持ち前の長打力で前年断トツの最下位から入団初年度で2位にまで引き上げて阪急の中心人物に。
翌1965年も本塁打を量産。しかし「外国人選手にタイトルを取らせたくない」という風潮があったために8月からタイトル争いとは無縁のチームも含めて四球を連発され、当時タイトルを争っていた野村克也率いる南海との試合では、バットとグリップを逆に持った状態で打席に立っても敬遠されるという徹底っぷりだった。
シーズン終盤で交通事故に遭ったために残り2週間のシーズンを棒に振ったためにタイトル争いから脱落。最高出塁率のタイトルのみ獲得した。なお、この裏では野村克也が三冠王を獲得している。
4年目には本拠地にラッキーゾーンが設置されたことも手伝って30本塁打を記録。健在っぷりを見せつけて阪急のパリーグ初制覇の原動力として活躍した。翌1968年には成績を落としたこともあってオフに退団するも、1971年に選手兼コーチとして復帰。出場は大幅に減ったものの悪くない成績を残し、コーチとしては現役時代からしていた投手の癖を見抜くためのメモを普及させて阪急の黄金時代の礎を築いた。翌1972年に退団。
以後、NPBとは接点が見当たらなかったものの故郷のカンザス州のセミプロチームを優勝に導いたりして同州のスポーツ殿堂入りも果たした。
2017年1月2日に死去。NPBのレベルを引き上げた外国人選手の一人として長らく語り継がれている。
査定について
1964年~1965年あたりを参考にしています。
基礎能力
当時としてもトップクラスのホームランバッターであることから弾道4。
ミートは当時としてもかなり高い打率を誇っているためCに乗せました。
パワーは本塁打数からこのあたりに。
走力は数字から見れば少なくとも俊足じゃないのですが、低くしすぎると二塁手として使えなくなるのでこのあたりに止めました。年齢もあると思いますが。
肩力はわからなかったのでこのあたりに乗せました。MLBでは遊撃手を任されていたことも大きい。
守備はポジショニングが上手かったようなのでそれを加味してそこそこ高めに。
捕球はそれなりに。
特殊能力
チャンスE:打点が少ないが、味方打線の弱さに原因があるのでEで抑えた。
インコースヒッター:これだけの大打者であるのにも関わらず死球が恐ろしく少ないため内角に投げれない選手だったのではと推測。
初球○:投手の癖を読む打撃から狙い球に強かったのでは。
ホーム突入・プレッシャーラン:ラフプレーが激しかったことから。
画像ファイル
パワプロ2018で使用可能。
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