歴代ベストナインの続きです。
ご尊顔
では能力
中島 治康
1936春~1951年
ポジション:外野手 (一塁手) 投打:右投右打
経歴:松本商業学校→早稲田大学→藤倉電線→東京巨人軍&読売ジャイアンツ→大洋ホエールズ
【通算記録】
871試合 .270(3296打数889安打) 146二塁打 44三塁打 57本塁打 493打点 397得点 103盗塁(.---)
207三振 260四球 7死球 19犠打 9犠飛※ 6併殺※ 出塁率.324 長打率.393 OPS.717
【キャリアハイ】1938年秋
38試合 .361(155打数56安打) 7二塁打 2三塁打 10本塁打 38打点 30得点 3盗塁(.---)
6三振 18四球 0死球 0犠打 -犠飛 -併殺 出塁率.428 長打率.626 OPS1.054
※太字はリーグ1位の記録 盗塁成功率は盗塁死が記録されていない年があるため不明。同様に犠飛、併殺も記録がない年があるため正確な数字ではない。
1936年のリーグ開始時から巨人軍でプレイ。1936年7月15日に巨人軍第1号本塁打を放っている。*11938年秋には.361 10本 38打点でプロ野球史上初の三冠王となる。1943年からは兼任監督となるものの翌1944年に応召で離れる。
1946年シーズン途中に再び兼任監督として復帰するもののチームは不調。三原脩に後任を譲る形で1947年シーズン途中で監督職を辞した。
1950年に大洋ホエールズに移籍。1951年に再び兼任監督となるものの成績が振るわず再び途中交代となる。同年限りで現役を引退。
引退後は読売新聞運動部に記者として在籍。アマチュア野球の取材・執筆を行った。1963年には野球殿堂入りを果たし、1982年~1984年は巨人軍OB会長を務めた。
1987年4月21日に急性心不全により死去。享年77歳
査定について
基礎能力
弾道はこのクソ打低時代(9球団40試合でリーグ全体110本塁打)に10本塁打を38試合で放った功績から4に。
ミートはクソ打低時代(リーグ平均.219)に.361とかいう意味不明な数字を出しているので思い切ってS93に。。
パワーは本塁打率などを考慮してA85に。
走力は他の年度の盗塁数、三塁打数などを考慮してC63。
肩力は強肩だったとのことからA84まで上げた。レーザービームもつけたのでいいだろう。
守備は肩以外に評価がほとんどなかったこと、ライトを守っていたことから下げた。
特殊能力
チャンスB: 打点より。1試合に1打点というハイペースなのでいいだろう。
ケガしにくさB:それなりに試合に出続けているので。
盗塁C:他の年度の盗塁成功率より。
パワーヒッター:本塁打率:15.5(500打数もらったら32本を打つレベル)
固め打ち:打率への補正、前半戦・後半戦で結構成績に開きがあるが調子極端を入れるには難しかったためこういう形で表現した。
ローボールヒッター:ワンバウンドした球を本塁打にしたなどの逸話。
威圧感:初代三冠王
レーザービーム:ライトゴロが何回かあったとのことから。
悪球打ち:非常にフリースインガーでこの時代でこのレベルの打者にしてはかなり四球が少ない。ローボールヒッターの項も参照。
エラー:少ない試合数ながらそれなりに失策があるので。
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