勢いで作りました。前々から作りたいとは思っていた。
一応リクエスト案件です。
>選手時代の三原修さんお願いします! https://t.co/DI8f1TTYUI #odaibako_Morihine
— 82 (@Morihine) 2018年4月17日
作る予定リストに入ってますよ
三原マジック版と選手版2種類つくると思います。
これですね。ただ、三原マジック版は難しいので作らないと思います。
ご尊顔
では能力
三原 脩
1936秋~1938年秋
ポジション:二塁手 投打:右投右打
経歴:香川県立丸亀中学校→香川県立高松中学校→早稲田大学商学部→全大阪→東京巨人軍&読売ジャイアンツ
【通算記録】
108試合 .226(407打数92安打) 19二塁打 5三塁打 0本塁打 40打点 60得点 27盗塁(.---)
37三振 68四球 1死球 9犠打 -犠飛※ -併殺※ 出塁率.338 長打率.297 OPS.636
【キャリアハイ】1937年春
47試合 .242(186打数45安打) 9二塁打 1三塁打 0本塁打 24打点 31得点 12盗塁(.---)
13三振 23四球 0死球 5犠打 -犠飛 -併殺 出塁率.325 長打率.301 OPS.626
※太字はリーグ1位の記録 盗塁成功率は盗塁死が記録されていない年があるため不明。同様に犠飛、併殺も記録がない年があるため正確な数字ではない。
監督としての通算勝利数2位の「魔術師」三原脩選手です。
1934年6月に同年12月に正式に発足する大日本東京野球倶楽部へ入団。1936年には東京巨人軍の選手権助監督に。俊足・堅守の選手であったものの応召により脚を負傷。1938年で現役を引退した。
戦後、読売新聞記者として働いていたものの巨人軍が成績が低迷していたため1947年6月に助監督・技術顧問に就任。9月には総監督に就任し指揮権を握った。その年は5位に甘んじたものの翌年は2位。1949年には100日間の出場停止*1もあったものの優勝を果たした。
しかし同年に戦前の功労者、水原茂がシベリア抑留から帰還したものの三原が水原を起用しなかったことにチーム内から批判が起こり、最終的には指揮権が水原茂に移る事態に。1950年は指揮権がないために悔しい日々を送った。
1951年に西鉄クリッパースに監督として就任。中西太、大下弘、豊田泰光、稲尾和久ら後のレジェンドたちを獲得し強大なチームに育て上げていく。
1954年にはリーグ優勝を果たしたものの中日ドラゴンズに3勝4敗で敗れる。
しかし1956年から1958年まで三年連続でリーグ優勝を果たし、日本シリーズでかつて在籍していた水原茂率いる読売ジャイアンツと対戦。ジャイアンツから排斥された経緯もあり「巌流島の決闘」と評され、注目を浴びた。
結果は三年連続で三原率いる西鉄の勝利。特に1958年の日本シリーズでは3連敗を喫した後、稲尾和久の4連投いわゆる「神様、仏様、稲尾様」で日本シリーズを制するなど監督として素晴らしい手腕を発揮した。
1960年には大洋ホエールズ監督に就任。54年から60年まで6年連続最下位のチームではあったが、それまでの起用法から大幅に変更することで優勝争いを繰り広げ最終的には水原率いる巨人を下し優勝。1点差試合には33勝17敗と非常に強かった。日本シリーズでもその手腕を発揮し、全て1点差で4連勝を果たし日本一に。
その後は近鉄バファローズやヤクルトアトムズの監督などに就任。優勝には至らなかったものの短期間でチームを大きく立て直した。
1973年には日本ハムファイターズの社長権球団代表に就任。監督の人事権を握った。
1983年には野球殿堂を果たしたものの翌年1984年2月6日に永眠。享年72歳
査定について
そもそも成績自体が殆どないこと、監督としての業績が凄すぎるために選手の情報がほぼなく、かなり適当になっています。
基礎能力
ミートは打低時代ということもあり、少し盛ってこの程度に。
パワーは本塁打を打っていないこと、そもそも打率がリーグで並程度なことを踏まえてかなり低めに。
走力は盗塁などを考慮して高めに。
肩力はわかんなかったので適当に。二塁手っぽくなるので。
守備は堅守ということから高めに。下げたほうが良かったかもしれない。
捕球は当時の劣悪なボールのことも踏まえて多少増加。
特殊能力
ケガしにくさE:応召により負傷し、引退まで至ったため。カムバックしていたらDかCにはしていた。
盗塁B:盗塁数より。盗塁死が記録されていないため成功率は無視している。
走塁C:三塁打数より。
バント○:打席数から考えるとそこそこバントをしているため。
画像ファイル
パワプロ2018で使用可能。
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