ご尊顔
では能力
田中 義雄
1937秋~1944年
ポジション:捕手 一塁手 投打:右投右打
【通算記録】
477試合 .247(1619打数400安打) 47二塁打 17三塁打 5本塁打 162打点 160得点 45盗塁(.---)
82三振 102四球 18死球 67犠打 2犠飛 -併殺 出塁率.299 長打率.306 OPS.605
【キャリアハイ】1940年
101試合 .293(368打数108安打) 13二塁打 5三塁打 0本塁打 42打点 46得点 11盗塁(.---)
22三振 16四球 3死球 14犠打 2犠飛 -併殺 出塁率.328 長打率.356 OPS.684
※盗塁成功率は盗塁死が記録されていないことから不明。併殺は記録なし。
初代ベストナインであり初代タイガースの4番であり正捕手、田中義雄選手です。
元々はハワイ在住で教師をしていたが、政情悪化や若林忠志の強い勧めなど様々な理由が絡み合って来日を決意。大阪タイガースに入団。
入団直後に4番の正捕手として出場。ハワイ仕込みの頭脳プレーで相手を翻弄し、当時は概念として存在しなかった"リード"も非常に良かった。肩も非常に良く盗塁を許さないほどであり、守備面で非常に活躍した。黎明期の恐ろしいまでの打低にも関わらず3割を二度記録するなど打撃面でも活躍。37年秋、38年春の連覇にも大きく貢献。
しかし1944年の途中にアメリカ軍に召集され、退団。打撃が低迷していたこともあり、そのまま引退へ。
1958年から1959年まで阪神タイガースの監督を務め、育成に尽力。後に2度の優勝を果たす基礎を作り上げた。なお、天覧試合*1での阪神タイガース監督も田中であり、「戦時中アメリカ軍として戦った日系二世が、日本の象徴である天皇陛下の前で指揮官として戦う」ととても興奮してたりする茶目っ気があったりもする。
その後はオリオンズ*2のコーチや二軍監督を歴任。通訳などを務めた。1985年、阪神タイガースが初の日本一となる年のセ・リーグ開幕直前に死去。78歳であった。
日本一になったことからドイツ語で皇帝を意味する「カイザー」を自称。「カイザー田中」と呼ばれていたが、経歴などから本名と間違われることもしばしばあった。
査定について
4年前の査定からちょこちょこ変えています。
強打要素としてラインドライブをつけました。おーるどるーきーさんのパクリです。
沢村栄治に強かったことは存じていますが思想上の問題で対エース〇はなしです。
参考:おーるどるーきー
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*1:あれはファールだった
*2:千葉ロッテマリーンズの先祖