松竹計画の続きです。
最初は江田貢一。
ご尊顔
では能力。
江田 貢一
1941~1957年
ポジション:投手 投打:右投右打
経歴:旧制伊丹中学→阪急軍→ゴールドスター&金星スターズ→大陽ロビンス&松竹ロビンス→大洋ホエールズ&大洋松竹ロビンス
【通算記録】
370登板(内248先発) 2165回0/3 3.61 勝率.398 97勝147敗 -H -S
完投123 完封22 奪三振447(率1.86) 四球690 死球24 四死球率2.97 暴投10 被本塁打126(率0.524) 被安打2279 失点1101 自責点869 WHIP1.37
【1950年度成績】キャリアハイ*1
44登板(内33先発) 288回1/3 2.83 勝率.742 23勝8敗 -H -S
完投23 完封4 奪三振66(率2.06) 四球75 死球4 四死球率2.47 暴投1 被本塁打14(率0.437) 被安打289 失点112 自責点91 WHIP1.262
1941年に阪急軍に入団。ルーキーイヤーの8月2日には継投でのノーヒットノーランを記録するなど鮮烈なデビューを飾った。しかし1943年に応召のためプロ野球を離れることに。
1946年にゴールドスターでプロ野球に復帰。無尽蔵のスタミナで250イニング前後を投げていたが、1948年に大陽ロビンスに移籍するも酷使の影響か出場機会が激減。
しかし翌1949年に復帰するとまたもや250イニング近くを投げて弱小球団であるロビンスの主力投手としてチームを支えた。
1950年には「水爆打線」と後に語り継がれる超強力打線の援護を受け、自身の成績も良化したこともあって勝ちを重ね、自身唯一となる20勝とシーズンの勝ち越しを記録。大躍進を遂げた真田重男には及ばなかったもののセリーグ初優勝に大きく貢献した。
1952年に大洋に移籍。弱小球団の主力投手として多くのイニングを稼ぎ続けた。1957年に引退。
引退後は近鉄にてスカウト、二軍投手コーチを経て様々な球団で二軍監督やコーチを務めた。しかし1978年2月11日、キャンプ中に脳卒中の発作を起こして脳梗塞で死去。享年54歳。コーチ在任中のことであった。
弱小球団に所属し続けたことで援護に恵まれなかったことやイニングを稼げる選手であったことから、通算負け越し数は50と歴代ワースト3位の記録を有している。
査定について
1950年を中心に査定しています。
基礎能力
球速は不明ですが、奪三振率が極端に低いのでゴロを打ってもらうように低めに。
スタミナは常時バンバカ投げているのでかなり高めに。
変化球
シュートとシンカー。ゴロを生んでもらいやすくするためにシンカーを強く。総変化9。
特殊能力
打たれ強さB:完全なイニングイーター。そこんじょそこらじゃ降板しないように。
重い球:打たせて取るタイプの投手としてあまりにも突出していることから。シュートやシンカーを引っ掛けたらアウトになるように。
野手能力
5本塁打とそれなりに打っているので長打がそれなりに出る形にしました。
三振もかなり突出しているのでついでにつけておきました。こういう選手いいですよね。
余談
奪三振率がここまで低い選手は初めて見たのでどうしようかなーと思った結果、球速を下げて重い球をつけるという結論に至りました。球速についての記述が殆どない選手だからこそ出来るやつですね(雑とも言うが)
画像ファイル
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