松竹計画の続きです。
今回は大島信雄。
ご尊顔
では能力。
大島 信雄
1950~1955年
ポジション:投手 投打:左投左打
経歴:旧制岐阜商業学校→旧制慶應義塾大学→大塚産業→松竹ロビンス→名古屋ドラゴンズ&中日ドラゴンズ
【通算記録】
162登板(内97先発) 884回1/3 2.82 勝率.610 64勝41敗 -H -S
完投41 完封14 奪三振273(率2.78) 四球263 死球7 四死球率2.75 暴投7 被本塁打43(率0.438) 被安打843 失点360 自責点277 WHIP1.25
【1950年度成績】キャリアハイ
34登板(内30先発) 225回1/3 2.03 勝率.833 20勝4敗 -H -S
完投13 完封5 奪三振70(率2.80) 四球75 死球1 四死球率3.04 暴投0 被本塁打9(率0.359) 被安打197 失点70 自責点51 WHIP1.207
セリーグ初の新人王にして最年長新人王、大島信雄選手です。
高校・大学・社会人とエースを背負い続け、1950年に松竹ロビンスに入団。この時点で29歳のオールドルーキーであった。ルーキーイヤーから速球と内角を縦に落ちるカーブで打者を打ち取り続け、1年目にして20勝4敗、防御率2.03で最高勝率と最優秀防御率を記録。この年に制定された新人王にも輝き、セリーグ最初の新人王となり*1、セリーグの初優勝に大きく貢献した。
日本シリーズでは新人ながら第1戦に登板。松竹のホームゲームであったため日本シリーズ第一球を投じた選手でもある。しかし若林忠志との延長12回まで続いた投手戦に敗れて日本シリーズ初の敗戦投手にもなってしまった。
1952年に名古屋ドラゴンズに移籍。年齢のためか出場機会を徐々に減らしていき、1955年にはわずか2登板の出場に留まって同年限りで引退。1954年の日本シリーズにも登板し、敗戦投手となったものの打者としても出場。2塁打を2本放って球団初の日本一に貢献した。
引退後は野球解説者や評論家として活躍。執筆活動にも精を出しており、野球の解説書や野球の指導書なども執筆するなど野球界に貢献。1969年から1971年は水原茂の下で中日の一軍投手コーチを務めた。
2005年1月8日に肺炎のため死去。享年83歳。
査定について
1950年を中心に査定しています。
基礎能力
球速は不明ですが、速かったようなのでそこそこ速めに。
コントロールは四死球率などからなんとなく。内角を攻めていた割には死球が少ないので若干上方修正している。
スタミナは1試合で投げる投球回はそこまで多くない感じだった(日に寄るが)のでB後半に。
変化球
ドロップとシュート。ドロップを多投していたようなのでドロップを6に。シュートは3。
特殊能力
対左打者D:右打者のインコースにドロップを投げるのが武器だったのでEとかにしようかと思いましたが、シュートが投げられる上にサイドスローに近い投球だったので間を取りました。
内角攻め:右打者のインコースを攻めるようだったため。
逃げ球:被本塁打がかなり少ないため。
寸前:勝ち越していた点を埋められることが多い印象なので。リード時×みたいなのがないのでこれで代用しました。
画像ファイル
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