新人王キャンペーンの続きです。1952年パリーグ新人王の中西太選手はドラフト用に作成したもので済ませます。
ご尊顔
では能力。
権藤 正利
1953~1973年
ポジション:投手 (一塁手) 投打:左投左打
経歴:柳川商業高校→大洋松竹ロビンス&洋松ロビンス&大洋ホエールズ→東映フライヤーズ→阪神タイガース
【通算記録】
719登板(内263先発) 2513回0/3 2.78 勝率.432 117勝154敗
完投84 完封20 奪三1943(率6.96) 四球1019 死球79 四死球率3.93 暴投70 被本塁打132(率0.473) 被安打2071 失点982 自責点775 WHIP1.23
【新人王シーズン】1953年
35登板(内26先発) 220回2/3 2.77 勝率.556 15勝12敗
完投13 完封1 奪三振170(率6.93) 四球105 死球11 四死球率4.73 暴投6 被本塁打12(率0.489) 被安打179 失点96 自責点68 WHIP1.29
連敗の世界記録保持者、権藤正利選手です。
1953年に大洋松竹ロビンスに入団。初年度から活躍を果たし、特に「懸河のドロップ」と称された縦に鋭く落ちるカーブで非常に多くの三振を奪い、高卒ルーキーながら220イニングを投げるなど弱小ロビンスのエースとして活躍した。一方で制球には悩まされ、100四球を超えており四球から崩れる場面も珍しくなかった。
翌年からは味方打線の貧打から来る援護運のなさで11勝20敗と大きく負け越し、その翌年の1955年には7月9日からの8連敗を含む3勝21敗で最多敗戦投手に。そのまた翌年はまさかの13連敗だけ。1957年の6月2日に勝利するまでシーズンを跨いでの28連敗の世界記録*1を樹立。負けに負けまくった。無論この記録は未だ破られていない。
1960年にはリリーフに転向。それが功を奏してか防御率1.42に12勝5敗と好成績を挙げてチーム初のリーグ優勝と日本一に大きく貢献した。
1964年に東映に1年在籍したのち、翌1965年に阪神に移籍。主にリリーフとして起用されて1967年には最優秀防御率も獲得した。しかし晩年は金田正泰監督との確執もあり、金田のあまりの言動に耐えかねて殴打。実働20年の連盟表彰がされる予定だったもののこの事件がキッカケで流れることとなった。
現在も存命中と思われる。
査定について
新人王キャンペーンなので1953年を参考にしています。
基礎能力
球速はそこそこ速かったようなのでそこそこ程度に。
コントロールは低めに。多分ドロップが曲がりすぎたりしたのもあると思います。
スタミナは滅茶苦茶投げているので高めに。
変化球
ドロップとナックルとシュートを確認。翌年の1954年には投げているので1953年にも投げていたものと判断。
「シュートが曲がらない」と言われていたのでシュートは1に。ドロップを6にしてナックルは2にしました。総変化は9に。
特殊能力
ケガしにくさB:初年度からかなり無茶な使われ方をしているが翌年ももっと投げていることや猛練習で知られた柳川商業高校の後でのこれなので。
奪三振:1953年のリーグ平均奪三振率が3.499に対して7近い奪三振率を誇っていることから。
ポーカーフェイス:温厚な性格として知られたことから似合うので。
負け運:ルーキーイヤーは勝ち越しているのでつけるほどではないもののやはり代名詞に近いものがあるので入れるべきと判断。
多分2点台の選手にしてはそこまで強くない感じだと思いますが、1953年は打高とは言い難い年度であり、失点率は3.915とあまり良くないのでそういうもんだと思ってください。
所感
色々不運が重なり続けた選手ですね。地味に大洋松竹ロビンスの入団で味方の失策にも悩まされたであろう選手でもあるので評価するのが難しい選手だと思います。
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