「1950年松竹を作れ」という神のお告げを受けたので頑張ります。
細かいことは3時間後くらいの記事で。
最初は小林恒夫。
ご尊顔
では能力。
小林 恒夫
1948~1958年
ポジション:投手 投打:左投左打
経歴:台中商業→台湾電力→上田栞製作所→大塚アスレチックス*1→金星スターズ→大陽ロビンス&松竹ロビンス&大洋松竹ロビンス&洋松ロビンス&大洋ホエールズ→近鉄パールス
【通算記録】
284登板(内194先発) 1444回2/3 4.24 勝率.295 46勝110敗
完投65 完封11 奪三振549(率3.42) 四球559 死球35 四死球率3.70 暴投15 被本塁打112(率0.698) 被安打1523 失点786 自責点681 WHIP1.44
【1950年度成績】
11登板(内9先発) 44回0/3 6.14 勝率.167 1勝5敗
完投1 完封0 奪三振20(率4.09) 四球29 死球0 四死球率5.93 暴投0 被本塁打7(率1.432) 被安打60 失点31 自責点30 WHIP2.023
松竹ロビンス最後のエース、小林恒夫選手です。
(おそらく)戦前、旧日本領であった台湾の社会人野球を渡り歩いて国民野球連盟*2の大塚アスレチックスに入団。翌年の1948年に大塚アスレチックスが金星スターズを買収したことに伴って金星スターズに入団してNPB入り。
初年度はカーブとシュートを生かした左腕の投球で防御率2.37の好成績を記録。しかし翌年からラビットボールが採用されたことにより成績が非常に悪化。1950年には44投球回で防御率6.14と、チームのセリーグ初優勝に貢献したとはとても言えない成績であった。
しかし翌年はエースであった真田が肘を痛めたために出場機会が大幅に増加。松竹ロビンスのエースとして自身唯一となる勝ち越しを果たした。翌1952年には更に成績が良化したもののチームが主力選手を大量放出したために勝ち星に恵まれず、12勝に対して27敗と歴代ワースト3位の敗戦記録となった。
以後、松竹ロビンスが合併した大洋で投げ続けたが、思ったような成績を挙げることはなく1958年に近鉄パールスに移籍して同年に引退。
通算100敗以上しながら50勝を果たせなかった唯一の選手であり、負け越し数はプロ野球ワーストの64。しかし1951年8月1日には12失点を喫するものの岩本義行の4本塁打18塁打を始めとしたプロ野球記録となる1試合9本塁打で勝利投手となったことも(2リーグ制以降では最多失点勝利)。
査定について
1950年を中心に査定しています。
基礎能力
球速は不明なのでなんとなくそれっぽいところに。
コントロールは与死球の数や暴投の少なさからそこそこ良かったと推測。四球の数は四球で対応。
あまり投げてないですが、翌年にアホみたいに投げているのでそういうのを考慮して高めに。
変化球
ドロップとシュート。ドロップが武器っぽかったのでドロップを多めに。総変化7。
特殊能力
打たれ強さF:起用法の問題もあると思うが、打たれだしたと思った瞬間に変えられているため首脳陣から信頼がなかったかと推測。
球持ち○:長身から投げ下ろすストレートが持ち味。
軽い球:ラビット時代なので仕方ないですが本塁打がラビット時代に急増しているため元々飛びやすいのではと推測。
負け運:歴代ワーストの負け越し。
余談
これだと44イニングじゃ済まないと思いますが、そもそも1950年の起用法とかメチャクチャなので現代に当てはめてもしょうがないところがあります。
画像ファイル
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