歴代ベストナイン選手の公開です。
今回は千葉茂。
ご尊顔
では能力
千葉 茂
1938~1956年
ポジション:二塁手 三塁手 外野手 (遊撃手) (投手) 投打:右投右打
【通算記録】
1512試合 .284(5643打数1605安打) 194二塁打 52三塁打 96本塁打 691打点 981得点 155盗塁(.---)
515三振 913四球 6死球 151犠打 9犠飛※ 69併殺※ 出塁率.385 長打率.388 OPS.773
【キャリアハイ】1953年
120試合 .320(462打数148安打) 31二塁打 1三塁打 12本塁打 80打点 87得点 3盗塁(.250)
46三振 55四球 1死球 19犠打 -犠飛 15併殺 出塁率.394 長打率.470 OPS.864
※太字はリーグ1位の記録 盗塁成功率は盗塁死が記録されていない年があるため不明。同様に犠飛、併殺も記録がない年があるため正確な数字ではない。
巨人の守備の名手「猛牛」、千葉茂選手です。
1938年に東京巨人軍に入団。1年目からレギュラーを獲得し活躍していく。守備範囲が広かったこと、動作も抜群に上手かったこともあって苅田久徳の系譜を告ぐ選手として名を馳せた。一塁手であった川上哲治の守備範囲が非常に狭かったこともあって「千葉一二塁手」と呼ばれたことも。
戦後には1,2番打者として活躍。1948年10月16日の太陽戦では1試合6得点を記録したり、1950年には当時日本記録となる1シーズン105四球を記録するなど選球眼も優れた打者でも合った。
1953年には打率.320を記録するなど活躍していたものの翌年頃から衰えが見られ、1956年に現役を引退した。
引退後の1959年、近鉄バファローの監督に就任。それまで球団名は「近鉄パールズ」であったが、千葉のニックネームである「猛牛」を意識し、近鉄バファローに改称した。
1961年まで監督を務めたものの球団が契約金の安い選手ばかり獲得していたこともあり、シーズン最多敗戦となる103敗を記録するなどと監督としては手腕を発揮できなかった。*1
その後は野球評論家として活躍。1980年に野球殿堂入りを果たし2002年12月9日死去。享年83歳。
査定について
キャリアハイである1953年と1950年を中心に査定。
基礎能力
弾道は本塁打数から3に。
ミートは打率、パワーは本塁打数より設定したものの特殊能力の関係からもう少し下げるべきだったかもしれない。
走力はあまり記述がなかったこと、「俊足ではない」と見たので控えめにした。
肩力はそれっぽく。二塁手なのでそこまでかなと思ったところもある。
守備はガン盛りした。ただし、苅田の方を格上として扱いたかったため若干下げた。捕球はこの時代にしてはかなりいいのでこれで。
特殊能力
送球A:守備の名手だったため。
広角打法:どんなときでも流し打ちを心がける流し打ちの名人であり、96本塁打の内81本が右方向であったことから。
流し打ち:同上。芸術的流し打ちをつけてもいい気がしたが気が引けた。
粘り打ち:ファール打ちの名人だったため。三振率は見ていない。
慎重打法:四球・三振を増やすために。上記の粘り打ちの効果による三振数の減少を抑える意味合いも大きい。
画像ファイル
パワプロ2018で使用可能。
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*1:なお、就任前年には勝率.238と最低レベルの勝率を記録しており、退任の翌年には57勝73敗という記録となっていることもあり、選手を育成したとも言える