「投の沢村、打の景浦、守の苅田」と呼ばれた選手の公開です。
ご尊顔(イケメンである)
では能力
苅田 久徳
1936春~1951年
ポジション:二塁手 遊撃手 三塁手 (外野手) 投打:右投右打
経歴:本牧中学校(旧制)→法政大学→東京倶楽部→大日本東京野球倶楽部→東京セネタース&翼軍→大洋軍→大和軍→東急フライヤーズ&急映フライヤーズ→毎日オリオンズ→近鉄パールス
【通算記録】
804試合 .219(2832打数619安打) 94二塁打 16三塁打 37本塁打 202打点
398得点 148盗塁(.---)
245三振 469四球 15死球 60犠打 2犠飛※ 11併殺※ 出塁率.333 長打率.302 OPS.635
【キャリアハイ】1938年春
35試合 .299(134打数40安打) 11二塁打 0三塁打 5本塁打 15打点
31得点 7盗塁(.---)
10三振 25四球 1死球 3犠打 -犠飛 -併殺 出塁率.413 長打率.493 OPS.905
※太字はリーグ1位の記録 盗塁成功率は盗塁死が記録されていない年があるため不明。同様に犠飛、併殺も記録がない年があるため正確な数字ではない。
1934年に読売ジャイアンツの基礎となる大日本東京野球倶楽部の設立に参加。ちなみに巨人軍入団選手の第2号である。遊撃手として日米対抗戦やアメリカ遠征に参加。
その際に「守備の要は二塁手*1」と認識、のちに日本野球界に多大な影響を与えることになる。
しかしその後、病魔*2に襲われたことにより巨人軍を退団。野球から離れて商売をしようかと考えていたときに東京セネタースから誘いを受け、セネタースへ移籍。その際の交渉で「二塁手をやらせること」と要求を出し、セネタースが承諾。二塁手苅田の誕生だった。
1936年には頭脳を使った走塁技術によって盗塁を量産、盗塁王となる。1938年春には監督を兼任*3しながら打率.299*4本塁打5本*515打点の大活躍で最高殊勲選手に輝く。特に守備が卓越しており、ポジショニングの上手さだけでなくジャンピングスローや併殺のコンビネーションなどを徹底して磨き内野守備に大きな変化を齎し、「苅田の前に苅田なく、苅田の後に苅田なし」と評されるほどであった。
戦後はしばらくセールスマンであったが、1946年に復帰。1950年には毎日オリオンズに移籍し、同年途中に近鉄パールスに移籍。1951年には.274というそれなりの打率を記録するもその年を持って引退。
その後は毎日や近鉄のコーチ、審判員、野球解説者を歴任。1969年にはその功績が称えられ野球殿堂に選ばれた。
2001年に死去。プロ野球創設時の選手で最後の生き残りであった。享年90歳。
査定について
キャリアハイの1938年春シーズンを中心に査定。
基礎能力
弾道は本塁打率から3に。本塁打率26.800と非常に高い数字を残している。
ミートは当時の打低具合も考慮したが、打数が少ないことや他の年はあまり打てていないことなどから低めに見積もってC62に。
パワーは黎明期でありながら非常に高い本塁打率を記録しており、少ない本数ながらも本塁打王争いをしていたことなどからB77に。これでもかなり下方修正した。*6
走力は「俊足ではなかった」ことや三塁打数のことなどからB72に。
肩力の記述は見当たらなかったものの、守備で名を馳せていたことからそれなりに良かったと判断。二塁手としてはそれなりのB78に。
守備は「苅田の前に苅田なく、苅田の後に苅田なし」と呼ばれるほどの上手さだったことからS98に。
捕球は当時の劣悪な環境などを考慮した結果D55という数字に落ち着いた。失策数が多いものの当時としては当たり前の話だが、無視するわけにも行かずどっちつかずとなった。
特殊能力
盗塁B:頭脳プレーで癖などを掴んで走っており、「苅田は頭で走っていた」とのことから。盗塁王も経験。
走塁B:最多二塁打を考慮し。このシーズンは三塁打を打っていないが、このシーズン以外では少ない打数ながらも2三塁打を毎回のように記録していることから。
送球A:守備の上手さから。失策数などからなくても良かった気がするが、二塁手なのであるべきと判断。
魔術師:守備の上手さから。守備職人で表現するのは逃げだと判断。どうせならと突っ走った。
チャンスメーカー:一番打者であったことから。上方修正。
粘り打ち:三振率7.46%。このシーズンのリーグ三振率は10.90%
選球眼:四死球率15.95%
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