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【OB・パワプロ2018】藤村 富美男(三塁手)①【パワナンバー・画像ファイル】

歴代ベストナイン選手の公開です。

今回は藤村富美男。毎回「とみお」って読んじゃう。「ふみお」が正しい。

 

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ご尊顔

 

では能力

 

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藤村 富美男

1936~1958年

ポジション:三塁手 一塁手 二塁手 外野手 (遊撃手) (投手) 投打:右投右打

経歴:旧制呉港中学校→大阪タイガース阪神

 

通算記録

1558試合 .300(5648打数1694安打)  339二塁打 63三塁打 224本塁打 1126打点 871得点 103盗塁(.---) 
424三振 631四球 49死球 16犠打 14犠飛※ 79併殺※ 出塁率.374 長打率.501 OPS.876

 

【キャリアハイ】1949年*1

137試合 .332(563打数187安打)  35二塁打 3三塁打 46本塁打 142打点 116得点 12盗塁(.750) 
44三振 47四球 4死球 0犠打 -犠飛 -併殺 出塁率.388 長打率.650 OPS1.038 

 

※太字はリーグ1位の記録 盗塁成功率は盗塁死が記録されていない年があるため不明。同様に犠飛、併殺も記録がない年があるため正確な数字ではない。

 

初代「ミスタータイガース」、藤村富美男選手です。

夏の甲子園に6度出場*2し、呉港中学校のエースとして門前眞佐人や沢村英二、吉田正男など名だたる投手と名勝負を繰り広げ「甲子園の申し子」と呼ばれた。

旧制中学校を卒業後は法政大学へ進学するつもりであったが、父兄が大阪タイガースと勝手に交渉を進め、それを知らぬ藤村は言われるままに大阪タイガースと契約した。

そういう経緯でプロ野球リーグ開幕と同時に入団。開幕戦の投手に選ばれ1安打完封勝利を飾る。内野手が不足していたことから内野手としても活躍し、初代本塁打王にも輝いた。

翌年からは二塁手に転向。しかし他の有力な選手がいたために出場機会は少なかった。1939年から1942年は兵役のために出場なし。そのブランクは大きかったのか1943年は思ったような成績が残せなかった。しかし翌年には4番に定着し、打点王を獲得。優勝に大きく貢献した。

1946年は監督を兼任。5番で打つ一方で戦後の投手不足のために投手としても登板を果たし、13勝2敗という記録を打ち出す二刀流を披露した。シーズン終了後に監督は若林忠志に譲ることとなる。

翌年以降はダイナマイト打線の中軸として4番に座り、1947年には打点王を獲得。ベストナインにも選ばれ日本プロ野球史上初のサイクルヒット*3、100打点を記録した。

1949年には本塁打王打点王を記録。首位打者小鶴誠が.361で獲得し、戦後初の三冠王は阻まれたものの大記録を達成。チームが8チーム中6位と低い順位であったのにも関わらずMVPを獲得し、この活躍は大阪人の心をしっかりと鷲づかみした。「猛虎魂」誕生の瞬間である。

翌1950年に2リーグ化したためにタイガースの主力選手が次々と引き抜かれたものの藤村は残留しチームを支えた。この年は打率.362で首位打者を獲得。奇しくも前年に三冠王を阻まれた小鶴誠三冠王を阻んだ形となった。*4この年の191安打はイチローが1994年に破るまでプロ野球記録であり、マット・マートンが2010年に破るまで球団記録であった。

翌年も本塁打・打点の二冠を飾るなど球界を代表する大打者として活躍。1950年からは打撃コーチを兼任し、1954年からは助監督を牽引した。しかし1955年に就任した監督が世代交代を目指して若手中心の起用を行い、主力選手が反発。監督が更迭されたため藤村が代理監督として就任し、翌年からは正式に兼任監督となった。

1956年には「代打ワシ」で代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放っている。なおコレが藤村最後の本塁打であり、無論兼任監督としては唯一である。

しかし兼任監督であるためにスタンドプレー気味な采配がチームメイトの反感を買い、「藤村排斥事件」が勃発。この煽りを受けて1956年に現役を引退。翌年は監督専任となったが同年に監督解任、代打要員として現役復帰が球団より発表されたが、成績は残せず11月末に引退。翌年には日本球界初の引退試合が敢行された。

1963年には国鉄スワローズの打撃コーチ、1966年を除いて1964年から1967年は東映フライヤーズの打撃コーチも勤め、野球解説者としても活躍。「必殺シリーズ」に俳優としても出るなど精力的な活動をした。

1974年に野球殿堂入り、1992年5月28日に腎不全のため死去。享年75歳。

背番号の10は永久欠番であり、1選手しかつけたことのない唯一の永久欠番となっている。

 

査定について

キャリアハイである1949年と1950年を中心に査定。

基礎能力

弾道は本塁打数から4に。

ミートは翌年の打率などを考慮してB78に。

パワーは本塁打数よりA88

走力は記述がなかったので盗塁や三塁打などからこのあたりかなという数字にした。正直高い気がしないでもない。

肩力は良かったとのことなので高めに。

守備は守備範囲が広かったとのことなのでこの数字に。捕球は守備率や精度については書いていなかったので低めにした。

 

特殊能力

 

盗塁B: 盗塁成功率がかなり高いため。全体としてかなり安定感があったもののAにするには流石に記述が足りなかった。

送球E:守備精度についての記述がなかったため。荒々しいイメージから。

アベレージヒッター:流石にこのレベルの打率を誇る大打者にはつけないと不味かった。

パワーヒッター:語るまでもない。

固め打ちサイクルヒット達成や打率より。

威圧感:タイトル獲得数が非常に多いため。

満塁男:2試合連続満塁本塁打、代打逆転サヨナラ満塁本塁打を記録している。

 

 

 

画像ファイル

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パワプロ2018で使用可能。

画像ファイルの使用方法についてはこちらを参照してください

 

 

 その他の選手はこちら

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*1:1950年の方がOPSや打率が高いものの本塁打の見栄えがいいのでこちらを採用した。

*2:当時は5年制の中等学校であったため6度出場が可能だった。

*3:ただし当時はサイクルヒットが全く認識されておらず、後年に発見された大記録であった

*4:小鶴誠の記録は.355 51本 161打点