歴代ベストナイン選手の公開です。
今回は杉浦清。
ご尊顔
では能力
杉浦 清
1946~1953年
ポジション:遊撃手 三塁手 (二塁手) (一塁手) 投打:右投右打
経歴:中京商業学校→明治大学→中部日本&中部日本ドラゴンズ&中日ドラゴンズ→大洋ホエールズ→国鉄スワローズ
【通算記録】
889試合 .255(3316打数846安打) 152二塁打 19三塁打 125本塁打 493打点 450得点 78盗塁(.634)
340三振 356四球 14死球 14犠打 -犠飛※ 51併殺※ 出塁率.330 長打率.426 OPS.755
【キャリアハイ】1950年
128試合 .296(463打数137安打) 28二塁打 4三塁打 26本塁打 96打点 83得点 13盗塁(.684)
55三振 69四球 0死球 1犠打 -犠飛 14併殺 出塁率.387 長打率.542 OPS.929
※太字はリーグ1位の記録 盗塁成功率は盗塁死が記録されていない年があるため不明。同様に犠飛、併殺も記録がない年があるため正確な数字ではない。
高校時代は中京商業学校の甲子園三連覇に貢献。大学時代には明治大学初の四連覇に貢献とアマチュア時代から活躍。大学時代には明治大学野球部監督の推薦により、伝説の甲子園投手・嶋清一擁する旧制海草中学校の臨時監督となったりもした。()
しかし大学卒業後はプロ入りせずに大学院へ進学し、高等文官試験(現在の国家公務員キャリア組試験)を目指し勉強するも、海草中学の監督に注力して夏の甲子園で監督としても優勝を飾った。前述の嶋清一に魅せられ、野球指導者としての道を歩むこととなる。しかし1941年に応召され、野球界からは離れることとなっていまう。
1946年に中部日本に入団。しかし当時すでに32歳と高齢であったが、すぐに正遊撃手として定着。アマチュアでの監督業などが評価されたのか7月には監督も兼任。しかし就任時の発言やその後の本社である中部日本新聞社の対応などが重なり、主力選手が反発して退団するなど苦戦を余儀なくされた。
1949年には兼任監督ではなく選手一本で再出発し強打の遊撃手として活躍。1951年には大洋ホエールズ、翌年には国鉄スワローズに移籍するも世代交代の波に呑まれて1953年で現役を引退。
1963年に中日の監督に再び就任。1年目は2位と非常に良かったものの翌年は開幕ダッシュに失敗したことを機に主力選手が反発。最下位に低迷したのち休養・辞任となってしまった。
その後は野球解説者として活躍する一方でOB会の会長も務めた。1987年8月22日死去。享年73歳。
査定について
キャリアハイである1950年を中心に査定。
基礎能力
弾道は本塁打数から3に。
ミート・パワーは打率・本塁打より。
走力・肩力・守備に関しては「堅守」のイメージのために大幅に盛った。無論、走力に関しては盗塁数を考慮している。
捕球は当時としてもそこまで秀でた守備率ではないため、D58で抑えた。
特殊能力
打撃が凄いものの打撃に関する記述があまりないので調整用ばかりになってしまった。
チャンスB:本塁打を打っていることや打率から考えてそこまで高い打点ではないものの調整として入れるべきと判断。
ハイボールヒッター:調整用。正直他に入れるべき特殊能力が見当たらなかった。
いぶし銀:調整用。
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