パワプロのこととかを書くブログ

タイトルどおりです。パワプロのことを書くだけです。

【OB・パワプロ2018】小鶴 誠(外野手)【パワナンバー・画像ファイル】

松竹計画の続きです。

今回は小鶴誠。以前も作成しましたが、再作成です。

 

f:id:halucrowd:20200119153107j:plain

ご尊顔。

 

では能力

f:id:halucrowd:20200129183100j:plain

f:id:halucrowd:20200129183052j:plain

小鶴 誠

1942~1958年

ポジション:外野手 一塁手 投打:右投右打

経歴:飯塚商業専修学校八幡製鉄所名古屋軍&中部日本&中部日本ドラゴンズ→急映フライヤーズ大映スターズ松竹ロビンス→広島カープ

 

通算記録

1655試合 .280(6141打数1717安打)  267二塁打 62三塁打 230本塁打 923打点 909得点 240盗塁(.745)  

741三振 761四球 10死球 17犠打 18犠飛※ 108併殺※ 出塁率.359 長打率.456 OPS.815

 

【キャリアハイ】1950年

130試合 .355(516打数183安打)  28二塁打 6三塁打 51本塁打 161打点 143得点 28盗塁(.778)  

53三振 53四球 1死球 0犠打 -犠飛 16併殺 出塁率.450 長打率.729 OPS.1.179

 

○「※」は記録がない年があるため正確な数字ではない

太字はリーグ最高 赤太字NPB史上最高

 

「和製ジョー・ディマジオ」と呼ばれ歴代シーズン打点・得点を半世紀以上も保持している小鶴誠選手です。

1942年に名古屋軍に入団。初年度からレギュラーを獲得し活躍する。1944年は応召により在籍しなかった。

1946年に中部日本軍に復帰するも1948年に球団代表の赤嶺氏が辞任に追い込まれ、後を追って退団し急映フライヤーズに移籍。この間に新田恭一からの指導でゴルフルイング打法を習得し、のちの大記録への足がかりとする。

1949年に大映スターズに移籍。ゴルフスイングによって力まずに振る感覚を身につけ、当時ラビットボールが採用されたこともあり打撃成績が大きく向上。その中でも飛びぬけての.361で首位打者を獲得。

1950年には「水爆打線」と呼ばれた松竹ロビンスの3番を打ち、切れ目のない打線から出塁してくる走者をその打棒で帰し、130試合で.355 51本塁打 161打点という恐ろしい成績をたたき出した。なお、51本塁打は当時のプロ野球記録で初の50本塁打達成であった*1。161打点と143得点、376塁打は現在でもプロ野球記録。28盗塁も記録しており、日本球界で唯一の50本塁打20盗塁を達成している。

水爆打線を象徴する記録の持ち主であり、単シーズンだけの成績で見ればプロ野球史上最高候補にまず挙がる。「打撃に欠点はない」と評され、セリーグ初優勝に大きく貢献してセリーグ初のMVPにも輝いた。

しかしシーズン終盤に椎間板ヘルニアを発症。翌年からラビットボールが廃止されたことも重なって成績を大きく落とした。

1953年に広島カープへ移籍。石本秀一監督の説得と広島市民の樽募金により移籍が実現し、大スターの入団に広島の町は沸きかえった。成績はかつてほどではなかったものの33盗塁を記録するなど奮闘。非常に弱かった当時のチームを支えた。1958年に現役を引退。

引退後は解説者を経て国鉄・産経・阪神でコーチやスカウトを歴任。掛布雅之の入団テストを担当した。その後はビルの管理会社を経営していた。還暦までバッティングセンターに通い続けて毎日200球ほど打ち込むなど生涯打撃を追及し続けた。

1980年に野球殿堂入り。

2003年6月2日に死去。享年80歳。

 

査定について

以前の査定から変更した部分のみ記述します。

基礎能力

ミートを上げてパワーを下げました。両者の数字を近づけて打撃の隙のなさを前面に出せるように。

肩力はライトの岩本義行との関係から下げました。

守備範囲も一流とのことから守備を大きく上げました。

 

特殊能力

広角打法削除:特に入れる意味がない

選球眼削除:四球が多いのは強打者で投げるところがなかったと思われるため。

アウトコースヒッターなし:ドラフト用に入れてましたが、内角低めに強かったらしいので。

満塁男:より多くの打点を稼げるように。

初球○:隙を見逃さない打撃。

併殺:前回の作成時期が赤特取得が不安定な時期で妥協した点だったため。

 

 

 

 

画像ファイル

f:id:halucrowd:20200129183121p:plain

パワプロ2018で使用可能。

画像ファイルの使用方法についてはこちらを参照してください

 

 

 その他の選手はこちら

www.heroin-powerpro.com

*1:1963年に野村克也が52本塁打をたたき出すまで日本記録であった