松竹計画の続きです。
今回は吉田和生。
ご尊顔はありません。
では能力
吉田 和生(本名:吉田 猪佐喜)
1939~1952年
ポジション:外野手 投打:右投右打
経歴:熊本工業学校→門司鉄道管理局→名古屋軍&産業軍→松竹ロビンス
【通算記録】
587試合 .223(2117打数473安打) 79二塁打 21三塁打 30本塁打 261打点 213得点 63盗塁(.XXX)
201三振 230四球 6死球 8犠打 3犠飛※ 20併殺※ 出塁率.301 長打率.323 OPS.624
【1950年成績】
91試合 .261(272打数71安打) 9二塁打 2三塁打 13本塁打 49打点 36得点 2盗塁(.500)
47三振 31四球 1死球 0犠打 -犠飛 8併殺 出塁率.339 長打率.452 OPS.791
※は記録がない年があるため正確な数字ではない
通算盗塁成功率は盗塁死が記録されていない年があるため不明。
1939年に名古屋軍に入団。力強い打撃と俊足で主に4番と5番で起用されて名古屋軍の中軸選手として活躍。 1943年には多くの選手が応召でいなかったこともあってかリーグ3位の打率を誇った。翌1944年に応召でプロ野球から離れることに。
戦後5年ほどシベリア抑留を経験したものの無事生還。1950年に松竹ロビンスにてプロ野球界に復帰。
1950年は小鶴・岩本・大岡の凶悪なクリーンナップの後ろを打つ6番での出場が主で後半からは多くの試合でスタメン出場。5月18日には1試合3本塁打、8月3日から8月8日に4試合連続本塁打を記録するなどブランクを感じさせない力強い打撃で水爆打線の一角としてセリーグ初優勝に大きく貢献した。
しかし翌年はラビットボール廃止の影響を受けて打撃成績が大きく下がったが、長打や足で魅せた。翌1952年は年齢のこともあってか出場機会が大きく減り、同年限りで引退した。
査定について
1950年~1951年を中心に見ています。戦前の記録も参考程度には見ています。
基礎能力
弾道は3。本塁打率はいいですが、ラビットボールの影響を大きく受けているので。
ミートは翌年の成績や戦前の不安定さから低めに。
パワーは十分にあるのでB程度に。
走力は翌年に9盗塁をしていることなどを加味してCに乗せました。
肩力はライトを守ったこともあるので若干高めに。
守備は木村勉との兼ね合いもあるので低めに。
特殊能力
チャンスB: チャンスに強かったとのことから。
盗塁C:単年で見れば成功率は悪いが、翌年は8割を超えていることを考慮して。Dでもいい気もする。
広角打法:戦前の記録で甲子園で右柵越えをしており、全体的に右への長打も十分にあるため。
調子極端:4試合連続本塁打や1試合3本塁打から。打率の不安定さも出したかった。
余談
出場機会が限られていたのは5年のブランクがあったからと思うんですが、それをパワプロで表現するのはマジで無理があるので(初年度に疲労を積めたら別だが)、木村選手とうまく併用してください。
活躍した選手ですが、選手名鑑動画にもなかったのでパワターは適当です。
画像ファイル
パワプロ2018で使用可能。
画像ファイルの使用方法についてはこちらを参照してください。
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