伝説案件です。
これの作り直しだったりする。
ご尊顔
では能力。
沢村 栄治
1936~1943年
ポジション:投手 投打:右投左打
経歴:旧制京都商業学校→大日本東京野球倶楽部&東京巨人軍
※京都商業学校は中退
【通算記録】
105登板(内86先発) 765回1/3 1.74 勝率.741 63勝22敗
完投65 完封20 奪三振554(率6.51) 四球301 死球8 四死球率3.63 暴投5 被本塁打8(率0.094) 被安打485 失点213 自責点148 WHIP1.03
【キャリアハイ】1937年 春
30登板(内24先発) 244回0/3 0.81 勝率.857 24勝4敗
完投24 完封7 奪三振196(率7.23) 四球68 死球2 四死球率2.58 暴投0 被本塁打2(率0.074) 被安打138 失点47 自責点22 WHIP0.84
伝説の投手、沢村栄治です。
1934年の暮れに大日本東京野球倶楽部の結成に参加。これが事実上のプロ入りとなる。
翌年はプロ野球が始まっていなかったため、第一次アメリカ遠征*1を執り行い21勝8敗1分、国内の巡業では22勝1敗と快進撃を見せ、プロ野球リーグが開始した1936年秋には史上初のノーヒットノーランを成しとける。同年の大阪タイガースとの優勝決定戦で3連投し、東京巨人軍を初めての優勝に導いた。
翌年にはキャリアハイとなる24勝、防御率0.81という恐ろしい記録を叩き出してプロ野球史上初のMVPに選出。2度目のノーヒットノーランを記録するなど球界を代表する投手として名を馳せた。
しかし、徴兵により1938年から1940年の途中まで日中戦争に従軍。手榴弾投げで肩を酷使されたことから右肩を大きく痛め、戦闘で左手に銃弾を浴び、マラリアに感染するなどしてそれまでの速球が投げられなくなった。そこでサイドスローに転向。変化球主体の技巧派投手として3度目のノーヒットノーランを達成するなど綺麗なカムバックを成し遂げた。
しかし応召によって1941年から1942年を棒に振り、サイドスローで投げることも困難になったために1943年にはアンダースローに転向。しかし、フォームチェンジが上手くいかず*2防御率10.64という散々な成績に終わり、1944年のシーズン開幕前に解雇。現役引退となった。
1944年10月2日に再度応召され、12月2日に屋久島沖西方にて戦死。27歳という短い生涯であった。
1947年に背番号14がプロ野球史上初の永久欠番に指定され、同年に沢村賞が設立。その年度の最優秀投手に送られることとなった。
1959年に最初の野球殿堂入りを果たした。
全盛期は短い間ではあったが、その速球は今でも語り草となっている。
査定について
前回の査定から変えた部分について書きます。
基礎能力
球速はそのまま。
コントロールは完全に「ちょっと変わった沢村栄治にしたい」というお気持ちが先走っただけなのでしっかりと下方修正。
スタミナもそのまま
変化球
ドロップカーブ・ドロップでしたが、ドロップ・カーブに変更。なんかソレっぽいので。総変化はそのまま。見栄えを重視。
特殊能力
対ピンチA: 防御率がね…。
打たれ強さC:そもそも打たれることすら少なかった(被打率.150前後)ので減らした。
怪童:お前、沢村栄治につけんかったら誰につけるっちゅう話やで。
球速安定:球速に対する補正。ガン盛りしていけの精神。
国際大会○:アメリカ代表に対して8回1失点。1試合だけだが、現在でも語り草になるのならつけるのが正しいと思った。
その他抜いたものなどについて
ポーカーフェイス:完全にイメージだったので抜いた。多分合わない。
シュート回転:シュート回転していたような記述が見当たらなかった。それっぽいのでつけていた人が多かったのではと推測。
根性○:デフォっぽくないからというのと気持ち悪かったから。スタミナS98まで上げているのでいらない。
クロスファイヤー:みわちゃんに負けていただけだから。いらない。
リリース○:日米野球で打ち込まれたりしたが、それは沢村の癖を見抜いていたというところが大きかったらしい。
球持ち○:前からつけてないのだが、リリースポイントが高かったようなのでつけなかった。
画像ファイル
パワプロ2018で使用可能。
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