今日はエイプリルフールということで「嘘」みたいな記録を残した選手を紹介しています。
二人目は野口二郎。
ご尊顔
では能力。
野口 二郎
1939~1953年
ポジション:投手 投打:右投右打
経歴:中京商業学校→旧制法政大学→東京セネタース&翼軍→大洋軍&西鉄軍→阪急軍&阪急ブレーブス
【投手通算記録】
517登板(内321先発) 3447回1/3 1.96 勝率.630 237勝139敗
完投259 完封65 奪三振1395(率3.64) 四球647 死球18 四死球率1.74 暴投8
被本塁打133(率0.347) 被安打2677 失点932 自責点752 WHIP0.96
【投手キャリアハイ】1942年
66登板(内48先発) 527回1/3 1.19 勝率.702 40勝17敗
完投41 完封19 奪三振264(率4.51) 四球108 死球2 四死球率1.88 暴投1
被本塁打6(率0.102) 被安打299 失点90 自責点70 WHIP0.77
【野手通算記録】
1098試合 .248(3348打数830安打) 93二塁打 25三塁打 9本塁打 368打点 316得点 94盗塁(.---)
101三振 226四球 1死球 14犠打 4犠飛※ 21併殺※ 出塁率.296 長打率.299 OPS.594
【野手キャリアハイ】1946年
96試合 .298(336打数100安打) 10二塁打 7三塁打 1本塁打 44打点 35得点 8盗塁(.888)
8三振 16四球 0死球 0犠打 -犠飛 -併殺 出塁率.330 長打率.378 OPS.708
中京商業学校時代は甲子園大会で優勝。1937年夏の決勝では川上哲治に投げ勝つ形での優勝。1938年の春にはノーヒットノーランも記録するなど大活躍であった。
1939年に旧制法政大学に進むものの中退して1939年に東京セネタースに入団。1年目、2年目とどちらも33勝を上げて最優秀防御率のタイトルを獲得するなど球界を代表するエースとして活躍。
それまでも非常に多い投球回・登板を重ねていたが戦況の悪化もあり、1942年には林安夫と競い合うような形で多投を重ねて投球回527回1/3、シーズン40勝を挙げた。これらは二つとも2番目に多い記録である*1。また同時にシーズン19完封を達成。この記録は藤本英雄が翌1943年にタイ記録を作るも現在でもシーズン記録として残っている。1943年を最後に応召。
1946年に戦後すぐに復活したプロ野球に阪急で復帰。応召による影響で打者での出場が増えるものの31試合連続安打のプロ野球記録を達成*2するなど打者としても活躍。1947年からは再び投手としても多く出場。1948年には無四球完投を13回記録してシーズン記録も作った。
しかし翌1949年から投手としての出場が減り、ラビットボールの影響もあり成績も大幅に退行。打者としてはそこそこの成績を出すものの1950年を最後に主力としての成績は出せないようになり1953年を最後に引退。
引退後は毎日オリオンズや阪急ブレーブスのコーチ、近鉄バファローズの二軍監督を歴任した。1989年に野球殿堂入りを果たした。
2007年5月21日に肺炎のため死去。享年87歳。
査定について
1942年を中心に。パワプロ11に登場しているので多少参考にはしている。
基礎能力
球速は不明。パワプロ11より145km/hを拝借。
コントロールは概していい上に無四球完投記録などもありガン盛り。
スタミナはS100。ガソリンタンクにしなかった補填もある。
変化球
パワプロ11に存在しており、Hスライダーとスローカーブ、シュートを確認。
スライダーは縦のスライダーだったとのことでVスライダーに。
スローカーブとシュートはそのまま採用。総変化11でシュートの記述が少なく感じたのでシュートを3に。
特殊能力
鉄腕: 選手としての代名詞より。効果としてもつけない理由にはならないので。
根性○:流石につける必要があるので。
尻上がり:完投記録などを考慮。
緩急○:スローカーブなどと混ぜて投球したいたため。実質補填。
画像ファイル
パワプロ2018で使用可能。
画像ファイルの使用方法についてはこちらを参照してください。
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