リクエスト案件です。
>黒人初のメジャーリーガー、ジャッキーロビンソンをリクエストします!
— 82 (@Morihine) 2018年4月17日
恥ずかしながら映画「42」を観るまで存在しか知らな… https://t.co/sMPQCPSFDU #odaibako_Morihine
作るリスト見て…(泣)
ご尊顔
では能力
ジャック ルーズベルト ロビンソン
1945~1956年
ポジション:二塁手 三塁手 一塁手 外野手 (遊撃手) 投打:右投右打
経歴:パナティザ短期大学→カリフォルニア大学ロサンゼルス校→青年局→カンザスシティ・モナークス→モントリオール・ロイヤルズ→ブルックリン・ドジャース
※カンザスシティ・モナークスはニグロリーグ、モントリオール・ロイヤルズはAAAのチーム。
【通算記録】
1382試合 .311(4877打数1518安打) 273二塁打 54三塁打 137本塁打 734打点 947得点 197盗塁(.---)
291三振 740四球 72死球 104犠打 9犠飛※ 113併殺 出塁率.409 長打率.474 OPS.883
【キャリアハイ】1949年
156試合 .342(155打数203安打) 38二塁打 12三塁打 16本塁打 124打点 122得点 37盗塁(.---)
27三振 86四球 8死球 17犠打 -犠飛 22併殺 出塁率.432 長打率.528 OPS.960
※太字はリーグ1位の記録 盗塁成功率は盗塁死が記録されていない年があるため不明。同様に犠飛も記録がない年があるため正確な数字ではない。
近代メジャーリーグ初の黒人選手であり、MLB全球団に永久欠番を保有しているジャッキーロビンソン選手です。
兄が1936年五輪の200m走で銀メダルを獲得するほどのフィジカルエリートであり、ジャッキーもその血を引いているからか若い頃からスポーツで頭角を現す。野球を含む4つの競技で奨学金を貰ったり、午前に走幅跳で優勝して午後には野球の試合に出て優勝するということもあった。
カリフォルニア大学に進学するものの学問の必要性を疑い退学。青年局でスポーツの指導者として働き、WW2の影響で青年局が解散され軍属になってもスポーツ指導者として働くなどした。
1945年にはニグロリーグ*1のカンザスシティ・モナークスに所属。正確な記録が残っていないものの.345もしくは.387の好成績を叩き出した。
同年にドジャース会長のブランチ・リッキーがこの活躍を見出し、ドジャース傘下のモントリオール・ロイヤルズへ入団。そのときにリッキーから求められたのは「やりかえさないだけの勇気を持つこと」であった。*2
翌1946年にはAAAで.349 111打点とリーグ1位の記録を叩き出し、ロイヤルズの優勝に大きく貢献した。*3
翌年にはメジャー昇格。MLB16球団中ドジャースを除く15球団がロビンソン(というより黒人)がMLBでプレイすることに反対を示したものの当時のMLBコミッショナーの裁定により無事出場を果たした。
新人ながら.297 12本塁打 48打点 29盗塁の大活躍を示し、この年に制定された新人王に選ばれた。初の新人王であり、初の黒人新人王でもある。
翌シーズンもチーム最高の.296 85打点を記録。1949年には.342 37盗塁で首位打者と盗塁王を獲得しMVPにも選出された。このシーズンから6年43年連続でオールスターに出場、3割を達成するなどドジャースの中心選手として活躍する。
1955年は.256 8本 36打点と自己最低の成績に終わるもののワールドシリーズではニューヨーク・ヤンキースを下し球団初のワールドチャンピオンの一員として勝利の美酒を味わった。シーズン終了後にジャイアンツへの移籍が持ち上がったもののドジャースで現役を終えることを望み、翌年1956年に現役を引退した。
引退後は著名な黒人として公民権活動に積極的に参加し、1962年には野球殿堂入りを果たす。しかし糖尿病などに悩まされ、1972年の永久欠番の式典では杖無しでは歩けない状態であった。
1972年の10月15日のワールドシリーズ第2戦で始球式を務めたもののその9日後の23日に死去。53歳という短すぎる人生を閉じた。
死後もジャッキーの妻であるレイチェルが「ジャッキー・ロビンソン財団」を創設し、黒人選手のメジャーデビューへの足がかりとして活躍。メジャーデビュー50年目の1997年4月15日にはジャッキーの背番号である42番がMLB全球団共通の永久欠番となった。*4
2004年には4月15日を「ジャッキー・ロビンソン・デー」と制定し、2007年には希望する選手全員が背番号42を背負って試合に出場する日となった。
アメリカでの黒人差別問題にスポーツで貢献した最初の選手として今でもその功績は語り継がれている。
査定について
基礎能力
弾道は本塁打数より3に。
ミートはSにすると気持ち悪かったのでA89に。
パワーは本塁打系の特殊能力をつけないことを考慮してB73。
走力は「こんなもんやろ」ということでA87
肩力は二塁手であったことなどからそこまでなかっただろうということでC60に。遊撃手として獲得されたことも考慮して少し強めにした。
守備はなんとなくでB71に。捕球はこんなもんやろということで。
特殊能力
多いので特筆すべきものだけ書きます。
チャンスB: 1949年の得点圏打率:.355 非得点圏打率:.336とそこまで大きな差はないものの124打点を考慮するとこうなった。*5
ケガしにくさB:大きなケガをしたように見受けられなかったので。
盗塁B:盗塁数、盗塁王獲得より。
固め打ち:試合の後半になるにつれ成績が良くなるためそれを再現したかった。逆境○と被るもののMLB選手だしええやろ。
逆境○:7回以降の接戦時打率.430
対変化球○:パワータイプ投手:.343 技巧派投手:.372
かく乱:後述
併殺:併殺数より
【かく乱について】
いい映画だと思うよ。(個人の感想です)
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