今朝の続きです。
今回はドラフト用。
では能力
南村 不可止(1954年からは南村侑広)
1950~1957年
ポジション:外野手 投打:右投右打
経歴:旧制市岡中学→早稲田大学→三井信託銀行→横浜金港クラブ→西日本パイレーツ→読売ジャイアンツ
【通算記録】
774試合 .283(2616打数740安打) 101二塁打 21三塁打 39本塁打 357打点 367得点 128盗塁(.731)
177三振 209四球 15死球 51犠打 11犠飛※ 54併殺 出塁率.339 長打率.382 OPS.722
【キャリアハイ】1952年
115試合 .315(441打数139安打) 21二塁打 3三塁打 8本塁打 76打点 72得点 18盗塁(.692)
20三振 40四球 2死球 4犠打 -犠飛 7併殺 出塁率.375 長打率.431 OPS.806
※通算記録の犠飛は記録されていない年があるため正確な数字ではない。
アマチュア野球では早稲田大学で活躍。黒で塗ったバットを使い首位打者を2度獲得するなどした。その後プロ野球には入らずに三井信託銀行に就職して横浜金港クラブでプレーしていた。
1950年のプロ野球再編に伴って新しく結成された西日本パイレーツに入団。この時点で32歳というオールドルーキーであったがそれまでに培ってきた打力で4番を背負った。
しかし翌年に球団が西鉄ライオンズと合併して消滅、読売ジャイアンツに移籍した*1。移籍年にはセパ分裂後初となるリーグ優勝に貢献、更に日本シリーズでは当時最高*2となる打率.562(16-9)をマークして最高殊勲選手に選ばれた。その後もしばらく主力として活躍していたものの年齢のこともあってか1955年から成績を落とし始めて1957年で現役を引退した。実働期間は僅か8年。
引退後は巨人のコーチや解説者を歴任。1974年からは三原脩の下で日本ハムファイターズの広報担当として寮長などを務めた。
1990年4月17日に死去。享年73歳。奇しくも誕生日の日であった。
正直オールドルーキーなので朝に出したほうを使ったほうがいい気がします…。
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