今日はエイプリルフールということで「嘘」みたいな記録を残した選手を紹介しています。
四人目は相原正男。
【追記】
この選手はエイプリルフールで作った架空の選手です。
詳しいことはこちらをご覧ください
これは備前喜夫選手の写真(4/1にはこれをご尊顔としていた)
では能力。
相原 正男
1947~1953年
ポジション:投手 投打:右投右打
【通算記録】
321登板(内176先発) 693回1/3 4.82 勝率.356 32勝58敗
完投22 完封1 奪三振285(率3.70) 四球268 死球15 四死球率3.67 暴投7
被本塁打45(率0.584) 被安打688 失点371 自責点302 WHIP1.38
【キャリアハイ】1949年
48登板(内20先発) 201回0/3 3.22 勝率.455 10勝12敗
完投8 完封0 奪三振97(率4.34) 四球72 死球2 四死球率3.31 暴投1
被本塁打12(率0.537) 被安打172 失点85 自責点72 WHIP1.214
「炎の15連投」相原正男選手です。
1947年に太陽ロビンスに入団。球威のある速球とよく曲がるカーブを評価されてのことだった。初年度は弱小太陽ロビンスで主に先発として出場するも打線の援護もなく芳しい成績を出せなかった。
翌1948年には先発の柱として活躍。しかし勝ち運には恵まれず173回を投げる働きを見せ2桁勝利をするものの負け越す。1949年には課題であった制球力に磨きがかかり先発・リリーフの両面で大きく活躍。しかしラビットボール導入の影響もあってか防御率はキャリアハイではあるものの3.22にとどまった。このオフに球界再編問題もあり、故郷である広島カープに移籍。
翌1950年には弱小カープの使い勝手の良いリリーフとしてシーズンを通して起用され、10月28日~11月12日にはなんと15試合連続登板という前代未聞の記録を達成。その間の成績は48回を12失点(自責点10)という好投を見せたものの、その酷使が祟ってかシーズン終盤には大きく成績を落とし、最終的に防御率は4.32まで落ち込んだ。
前年の酷使が響いてか1951年は僅か58回2/3に留まり成績も悪化。1952年は1年間治療に専念するものの翌1953年に2登板したことを最後に現役を引退。
引退後は地元の企業で働く傍ら社会人野球チームでコーチなどをしていた。
2003年5月29日に死去。享年75歳。
査定について
1949年を中心に1950年の要素も加えている。
基礎能力
球速は不明。しかしそれなりの速度があったとのことでこのあたりに。
コントロールは制球難だったようだが多少改善しているようなので若干高めに。
スタミナは回復Aとの関係で低めに。先発時の投球回もそこまで多くない。
変化球
変化球はカーブと緩い落ちる球。
カーブはそのまま採用。落ちる球はタイミングをずらすボールだったということでチェンジアップを採用。カーブ中心で総変化は6。
特殊能力
対ピンチB: 回途中からの登板でも抑えていたので。
ノビC:速球を武器にしていたようなので。ただBにするには成績が足りない。
回復A:「炎の15連投」という異名から
重い球:重い球質が特徴だったよう。デフォっぽさがなくなるが入れたほうがいいと判断。
回またぎ○:黎明期要素。実際に多い。
闘志:Yahoo!知恵袋より「やるきマンマンの気を吐く投球」と書いていたので。
短気:同上。打ち込まれるとグローブを叩きつけたりしたらしい。
四球:コントロールを上方修正した補填
なお、これらは全てでっち上げた内容なので調べてもまともな記事は出てきません。あしからず。
画像ファイル
パワプロ2018で使用可能。
画像ファイルの使用方法についてはこちらを参照してください。
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